考古学、考古学者そしてそれらが表象する過去

小川英文

東京フィリピンセミナー2001、5月12日 於上智大学

 

はじめに

これからの話は、考古学や考古学者がフィールドの過去を想像する際の問題点についての提示です。

そのために、まずわたしのフィリピンでの考古学のフィールドワークの経験から話をはじめ、「発見」を契機とする考古学の限界性を問題とします。つぎに、「発見」を棄てたわたしの研究が,理論やモデルづくりに向かう過程で、狩猟採集社会のイメージが支配的パラダイムのなかで築かれ、文明の対極として描かれてきたこと、そして考古学が文明と国民国家の神話に寄与するかたちでしか存在意義をもてないという問題を提起します。最後に、考古学の新たな可能性の模索の試みとして、考古学者自身の認識の転換が必要であるということを提示します。

 

1.「発見」を契機とする考古学

まず恐縮ですが、個人的な話からはじめます。それは、わたしが日本で学んだ考古学の方法が使えなかったという衝撃です。わたしは1982年からカガヤン州で考古学調査を開始し、今日まで断続的にほぼ20年近く、考古学調査を継続してきました。特に85年から88年までは3年間、カガヤン河下流の村に住み込んで調査していました。調査の目的は、狩猟採集社会と農耕社会との相互関係のメカニズムを歴史的プロセスとして、考古学的手法で跡付けていくことです。そこでカガヤン河の両岸を毎日歩き、貝塚を中心とする遺跡をさがし、土器のかけらを拾い、遺跡の範囲を地図に落とす作業をしていました。2年間ほどこの作業を続け、遺跡がバブヤン海峡に面したアパリの町から40kmカガヤン河をさかのぼった地点まで、両岸に20ヶ所以上点在していることが明らかになりました。これらの貝塚は径10mの小さな規模のものから500mにおよぶ巨大なものまで、いくつかのタイプに分けることができました。それからこの調査の英文報告書をつくりました。

 ここで問題なのは、その報告書をフィリピン以外の海外の研究者に送ったことです。もちろん考古学では、考古学者個人の「発見」を世界に知らせることが学問的な目的となります。すなわち考古学という学問に熱意をもって取り組むということ自体が、「発見」を評価され、この世界で有名となることで達成されていくわけです。しかし実際には、「発見」された遺物はフィリピンで掘り出されたわけです。これが誰のものであるのか?学問的成果は誰に帰するのか?このとき出土遺物をめぐって政治的な問題が立ち起こってくるわけです。わたしが「発見」の報告書をフィリピンから海外へ発送したことは、「いったいどこに送ったのか」というかたちで国立博物館では問題になったと認識していまが、すでに博物館の人びととは友人関係を築いていましたので、面と向かって抗議・非難されることはありませんでした。非難されなかったからといって、しかしそれではこのままわたしがなんの痛みもなくフィリピンでの「発見」を学問的熱意をもって調査し、発表し続けてもいいということにはなりません。

このときのわたしの行為に対する反省と、フィリピン人考古学者の心情を傷つけてしまったという悔恨は、その後のわたしの調査・研究のあり方に大いに影響することになりました。こうした政治的問題を回避する手段はいくつか考えられますが、わたしが採ったのは「発見」を自らのものとしないというものでした。考古学者として生きていきたい、しかし感情をめぐる政治的な問題を起こすような調査はしたくない、というジレンマは、学問と倫理というハザマでわたしの悩みの種でした。

しかし長い間悩んだ末に、考古学者としての個人的な倫理性だけを問題にしてもこの政治的問題は解決することはないということに気づきました。むしろ「発見」という考古学という学問が宿命的に抱えている問題を批判的に捉え、新たな考古学的方法を模索する必要があると考えるようになりました。考古学が学問として成立するために、熱意をもって調査を続け、一定の「発見」を特定の学術雑誌で発表するということによって、職業的考古学者として独り立ちできるという日本で学んだ方法が、フィリピンでは政治的問題を喚起すること、フィリピン人の心情を傷つけてしまうことを、考古学の中から学問的に問い直されなくてはならないというように考えるようになったわけです。

 

2.狩猟採集社会のイメージの転換

 このように「発見」を契機とする考古学の研究方法は、その誕生以来現在まで引き継がれているものですが、そうした考古学の方法自体がわたしにとっての外国フィリピンで展開されたとき、学問と倫理のジレンマに悩まざるを得ませんでした。しかしながらこのジレンマをはじめから学問的に解決していて行こうという意図をもっていたわけではありませんでしたし、その方法もすぐには見つかりませんでした。むしろ自らに倫理的拘束を与え、調査はしても単著のかたちで「発見」の第一報を世界に発信することはやめました。それでも論文は書かないといけないので、狩猟採集社会と農耕社会との経済的相互関係を考古学の資料を用いて検証しながら、社会的・政治的関係へとアプローチするためのモデルづくりという理論的考察で論文を書いていました。ちょうどその頃、80年代末から90年代初めにかけて、これまで先史狩猟採集社会のモデルとして一般に受け入れられてきたモデルを覆す、カラハリ論争が起きていました。この論争を追っていくうちに、「考古学的発見」の限界が徐々に見えはじめてきました。

それまで狩猟採集社会のイメージは、リチャード・リーらによるカラハリ砂漠のブッシュマン研究の成果であるMan The Hunter (Lee and De Vore 1968)から60年代末以降に導き出されてきました。そのイメージは、生業における採集食物の重要性や採集活動における女性の高い貢献度、そして余暇の時間の存在などによって決定付けられました。Man The Hunter以前には、いつも腹を空かせ、食料を求めて移動する人びとというイメージが狩猟採集社会を覆っていました。

しかしリーらの研究成果が世に出ると、実は狩猟採集社会は低い労働投下量で高い生活水準を享受し、自然環境の諸条件に密接に適応するかたちで柔軟に構成された、「自立的(自律的)」な平等主義的共同体であるというイメージが広まりました。この狩猟採集社会のイメージは南アフリカの現在のブッシュマン社会から導き出されたものでしたが、考古学者に好意的に受け入れられ、世界各地の先史狩猟採集社会研究にモデルとして導入されました。ここで「自立的」というのはわたしにとって重要です。なぜならわたしは狩猟採集社会と農耕社会という生業基盤が異なる集団間の相互関係、相互依存関係の歴史プロセスのメカニズムを解明しようとしていますので、「自立性」はわたしにとって都合が悪いわけです。旧石器時代からその社会が変化なく現在に到ったという先入観を与えてしまうからです。しかし狩猟採集社会の「自立性」あるいは「純粋性」は考古学者にとっては好都合です。なるべくシステム外部からの雑音が少ないほうがモデルづくりは容易だからです。

リーらの狩猟採集社会モデルが批判され、数年におよぶ論争の争点となったのは、まさにこの狩猟採集社会の「自立性」をめぐってでした。リーらのカラハリ・モデルを批判する修正主義者によれば、かつてのブッシュマンはアフリカ東海岸の交易集団との交流をもち、インド洋交易の末端で原材料の調達に携わっていたが、大航海時代以降このネットワークが断ち切られてから、徐々に現在のような「自立的」生活を送るようになった。けっして先史時代からずっと他集団との交流をもたずに生活していたわけではないと主張しているわけです(Wilmsen and Denbow 1990:499-503)。カラハリモデルについてリー自身は現在のブッシュマン社会を「石器時代の生き残り」とすることは慎重に避けてはいますが、それでも過去から現在まで変化のない社会とみなすような時間の観念(timeless sense)で狩猟採集社会をとらえていたこと、あるいはカラハリモデルの歴史性の欠如を指摘することができます(Shott 1992: 845)

 さらにカラハリ・モデルには、狩猟採集社会を、あるいは他者を本質主義的に想像することの問題も指摘することができます。カラハリ・モデルを受け入れた考古学者たち(わたしも含めて)が行ってきたように、より「自立的」で、外界から「隔離」された「純粋な」狩猟採集社会をさがし求め、それをモデルとして過去を再構築しようとする姿勢の背後には,狩猟採集社会の周囲に存在する社会との「交流」を、「伝統」や「純粋性」の「汚染」とみなす視角が潜んでいます。目の前の狩猟採集社会から「伝統項目」だけを恣意的に抽出し、外部世界からの「汚染」を排除して先史時代にあてはめるモデル構築の材料にするとしたら、それは世界システムのなかで周辺化されている狩猟採集社会を現実から切り離す一方的な態度にすぎません。これは近代の影響による「汚染」を狩猟採集社会から防ぐために、「民族誌的現在」という静止した時間に閉じ込めて観察、記述する方法を用い、本質主義的な他者表象をつづけてきた、われわれの問題として提示されなくてはなりません。

カラハリ・モデルの本質主義的性格は70年代における研究者に課せられた時代的制約、あるいはその時代の支配的パラダイム(dominant paradigm)による制約に起因しているものと考えられます。ベトナム戦争以降、輝かしいはずの「文明」へ投げかけられた疑問は、「非文明世界」における自然と人間の調和にユートピアモデルを築かせる直接的要因となりました。すなわち新たな「高貴なる野蛮人」イメージを狩猟採集社会に重ねることになりました。しかしながら、厭世的モデルもこの時代には、文明への反省という確固たるイデオロギーとしての意義をもっていました。研究者は研究対象が自然との関わり方に研究者の属する世界とは異なる考え方をもっていることを理想化し、新たな狩猟採集社会のイメージを生み出したわけです。これが広く世界中の狩猟採集社会に共通するイメージとして受け入れられることになりました。その端緒はMan the Hunter  にみることができ、新たなイメージを広める伝道師としての役割をサーリンズ(1972)にみることができます。現在のエコ思想や周辺民族がわれわれとは異なった自然観をもつという認識、そして現在周辺民族が唱える戦略的本質主義の言説などは基本的にこの時期に生み出されたものと考えられます。

 70年代には、民族考古学(Ethnoarchaeology)の手法による狩猟採集社会の過去の復元モデルがつくられましたが、それらもカラハリ・モデルの影響を強く受けています。パラナンで調査を続けていたピーターソン夫妻によって提示された、先史狩猟採集社会と農耕社会との相互依存関係のメカニズムを説明する交換適応(exchange adaptation)モデルは、ハイネゲルデルンによる狩猟採集社会の「隔離モデル」を乗り越えようとするものでした(Peterson and Peterson 1977)。しかしそれも、閉鎖的なシステム内で完結するメカニズムが、外界からの影響を受けず、先史時代から現在までの長期にわたって安定的で、静的な「均衡 (equilibrium)」が変化せずに存続してきたという説明に終わっています。安定性や均衡を壊す動態が、社会の変化をもたらしたと考えた方が自然です。

いっぽう、カラハリ・モデルの修正主義者であるヘッドランドは、今でもなお研究者に根強く残る自立的狩猟採集社会のイメージにチャレンジしました。シエラマドレの太平洋岸で長年アグタの調査を続けてきたヘッドランドは、熱帯雨林の先史狩猟採集社会が農耕社会との交渉なくして、炭水化物の供給なくして存在することは不可能であったことを提示しました。このために彼は農耕社会出現以前の時代における世界中の熱帯雨林内の遺跡を調べ、マレー半島を除いて旧石器時代の遺跡が熱帯雨林に存在しないことを明らかにしました。しかしこれに対し、熱帯地域を研究する多くの考古学者たちは否定的でした。すなわち、考古学者の認識のなかでは、狩猟採集社会はいまなお「自立的」で「純粋」なものとして捉えられていることは明らかです。

狩猟採集社会はこれまで「残虐な」あるいは「高貴な野蛮人」のいずれかのイメージで描かれてきましたが、いずれにしても考古学は「文明の対極」という本質主義的なイメージで狩猟採集社会を描いてきました。そしてそのことに対する反省から新たな研究の方向性を見出すような動きはほとんどありません。そのためには、なぜ狩猟採集社会を文明の対極というイメージに閉じ込めてきたのかという問いから発した、認識論のレベルでの問題の提示と、新たな先史狩猟採集社会研究の方向性の模索が必要となります。

 

3.「文明」、「国民国家」の神話づくりに寄与する考古学

 本質主義的な他者認識は、狩猟採集社会を「文明の対極」として捉えるしかたに起因しています。同時に本質主義的な他者表象は、わたしたちが築いてきた文明を確認するための「写し鏡」として狩猟採集社会の歴史を見てきたということを示しています。そしてわれわれの歴史、すなわち「文明」の足跡を追う考古学は、「国民の来歴」を本質主義的に構築するナショナリズムあるいは国民文化に寄与する学問として成立し、機能してきました。考古学者がいったん過去に遡りそして現在へ戻るとき、文明の方向性に沿った「国民の来歴」を作り上げています。わたしのように、日本との先史時代の文化的関係をまったく視野に入れずに、外国の過去を再構成する考古学者は特に、植民地主義的な「他者」の過去表象という問題に対して、さらに重大な責任を負っています。

他者のイメージや過去が、考古学者が生きる現代の社会のコンテクストに左右されながら構築されている現状を抜け出して、新たな考古学の可能性を模索する必要があります。国民国家のなかのマイノリティとマジョリティ、世界システムの周辺と中心という関係の中で、過去が表象されている現状では、「考古学的発見」を契機とする考古学にはわたしが経験した政治的ジレンマの問題が絶えることはありません。ナショナリズムや国民の来歴に寄与する国民国家の考古学しか存在しない現状では、わたしが犯した過ちは繰り返されることになります。わたしの過ちを考古学のせいにするわけではありませんが。

 

おわりに

最後に以上の議論をまとめると、考古学的発見が政治的ジレンマを生むということに気づいてから、わたしの調査・研究の方法は大きく変わりました。そしてカラハリ論争をつうじて、考古学者の認識のワク組みや支配的パラダイムの問題に、社会構築論的な立場からの批判が可能となりました。考古学的には、交流という動態を視野に入れた、具体的な社会関係のモデルをつくる必要性に気づくことができました。これらの認識論的な旅を経ることによって、フィリピン人考古学者との関係における個人的な倫理の問題から、考古学的発見をめぐる政治的ジレンマを学問に内在化させる方向性を見出すことはできました。こうした学問の方向性はフィリピン、あるいは東南アジア考古学の可能性として提示することができます。しかし、その際おのずと発生することが予測される、本質主義と社会構築論との政治的対立をどのように乗り越えていくかという問題は未解決のままです。この問題を提起してわたしの発表を終わります。

 

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